【コラム】『Mixtape』が賛否を呼んでいるのは、ゲームだから?

『Mixtape』は誰の「今」を鳴らすゲームなのか『Mixtape』を巡る論争が、今なお国内外で騒がしいことになっている。 IGN(US)の満点レビューが呼び水となり、「ノスタルジーありきのゲーム」といった批評、「これはゲームではない」といった極論、さらには「白人中心社会の裕福な学生の青春にすぎない」といったものから、パブリッシャーAnnapurna Interactiveの資本背景を巡る政治的批判まで、様々な議論・賛否が噴出している現状だ。 このコラムではそれらの政治的・メディア論的文脈を呑み込んだ上で、なぜ『Mixtape』がこれほど大きな話題になったのか、そして「30年前のアメリカ郊外の青春」を扱った本作が、なぜ多くのプレイヤーの心に強く訴えかけたのかを考察してみたい。 ゲームなのか? 動かせるMVなのか? 冒頭に記した本作への批判「これはゲームではない」については、筆者は自信を持って答えることができる。これはまさしく「ゲーム」である(理由は後述する)。さらに本作は「ゲーム」と「映画」に対する、受け手の受容の違いを浮き彫りにした作品と言えるだろう。 多くのプレイヤーが指摘するように、『Mixtape』が描く青春はけっして普遍的なものではない。本作の主人公のひとりであるステイシーが選曲する楽曲群を音楽史的に位置づけるなら、グランジの代名詞的存在であるNirvanaのフロントマンだったカート・コバーンの死後、オルタナティブ・ロックやブリット・ポップが席巻していた90年代に支持された洋楽中心であり、本作で描かれるのは、そうしたレコードやCDを買える経済的余裕、車とパーティー、文化資本に恵まれた高校生たちの青春である。そこに違和感を覚えた人がいるのは当然と言えば当然だろう。 しかし限定された時代設定と記憶だからこそ、作品内で流れる楽曲と空気感が、似たような青春を送った人たちにピンポイントに刺さったことも事実だ。 「映画」との違いについてはどうだろうか。 本作のリファレンス・インスパイア元になったであろう『バッド・チューニング』、『ウォールフラワー』、『レディ・バード』といった青春映画たちも、中産階級に生まれ育った若者たちの限定された青春を描いた作品だが、それに対する反発が(少なくとも目立った形で)起きることはなかった。 では、なぜ似た青春が描かれた本作『Mixtape』に対して、批判的な反応がバックラッシュのように寄せられたのだろうか? もちろん本作が「WOKE運動(※社会の不公正・構造的な差別などに対して無自覚であってはならないという認識を促す意識改革への呼びかけ)」以降の作品であるという時代背景は無視できないものの、筆者は、最終的には本作が「ゲーム」というメディアが持つ「インタラクティブ性」が何より大きな理由であると考える。 映画の観客は「これは監督が描いた世界だ」と、一定の距離を持って作品を受け取れることが多い。しかし、プレイヤーが登場キャラクターを操作することがメインとなる、本作のような作品では——とりわけプレイヤーが固有の記憶を持っている、人生のあるフェイズを描いたゲームではなおさら——多様な反応を呼ぶことになる。 本作をゲームの俎上に載せるなら、『Gone Home』や『Life is Strange』以降のナラティブADVの系譜にある作品として見ることができる。しかし、本作のキモは選択や分岐ではなく(実際、選択も分岐も用意されていない)、断続的に流れる音楽と印象的なインタラクションの数々にある。 プレイヤーは冒頭から主人公たちをスケートボードで滑走させ、草原を跳び回り、バッターボックスに立ち、舌を絡み合わせ、野外パーティーでビデオカメラを回す。それらは当時近い経験をしていたプレイヤーにとっては、懐かしく輝かしい追体験となるかもしれない。しかし多くの人にとっては、押しつけがましくてリアリティに欠けたゲームに映る危険も有しているだろう。 余談だが、同じナラティブADVの系譜で言えば、物語が筆者により深く刺さったのは『Life is Strange』や『Tell Me …

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